star dust

IT業界で働くアラサーの徒然雑記。邦画・ミステリ小説の感想や、抑うつ記録など。

「私の男」を観てきた

少し前の話になるのだけど。思い出しながら書き残しておきます。

 

二階堂ふみちゃんが好きなので、前々から楽しみにしていて。公開初日、急遽予定がなくなったのでチケット残ってるか調べてみたら、なんと舞台挨拶回に入れたのですよね。とってもラッキーだった。生ふみちゃん観るのは「不道徳教室」以来で2回目だったけど、可愛かったよー。

映画はとてもとても、衝撃的でした。父と娘である男と女が、恋とか愛とか家族とかそれ以上のものとかをお互いに求め合って、どうしようもなく絡まって、ほどけないままのお話でした。北海道の大地と、冬と、流氷。「何したってアレはあたしの全部だ!」という花の叫びが一番印象に残っています。後には戻れない道を、他に術も知らず、進んでいくふたり。あれは愛なのかなあ。なんなのかなあ。依存。執着。それよりもっと強い何か。ふたりでひとつだ、というような。仮に淳悟が単なる養父であったとしても、受け入れられがたい関係だろうに。実際彼は本当の父親で、その出生の事情も加味すると余計に、倫理観ぶっ壊れてる。と思う。でも着地、そんな議論も意味ないんだろうな。危うくっておかしくて汚れてて誰も寄せ付けない、だからちょっと美しくもある、愛みたいなもの。なのかな。

映画を観終わった後、どうしても気になって、原作も読みました。桜庭一樹も文学的なものをちゃんと読むのも初めてだったのだけど、すっと読めて、とても面白かったです。原作は、花が結婚するエピソードから始まり二人の出会いまで遡っていく構造で、映画はそれを逆にして作り替えてあったのね。原作の時系列だと、二人の出会いを読む頃にはやがてたどり着く終着点とそこまでの経緯を知っているから、絶望の底で家族を手に入れて希望へと歩み出さんとする淳悟と花の姿が、眩しくて切なくて困った。あと、映画では花が、年相応に恋や苦しみを経験しつつも、最終的には得体の知れない化け物のような魔性をもって描かれていたように思うけれど。原作では結婚のエピソードが花の一人称だったからか、得体の知れないのはむしろ淳悟のほうで、その違いも味わい深かった。どちらも良かったな。両方楽しんで正解。

それにしても、「私の男」という表現は、相手をそう表現するのがしっくりくるような関係性は、まだ私にはぴんと来ない。いつかわかるのか、それとも私の人生でそれを理解することはもうないのか。わからないけど。良い作品に出会えました。